アラサー時代、年収が300万→500万にアップした話

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今月、35歳になりました。
アラサーからアラフォーに。

私は割と社会学的な目線で、自分の行動を観察することが好きです。

だから、アラサーからアラフォーに移行するなかで、自分の興味・関心・行動がどの様に変わっていくのか興味があります。

アラサーが終わったので、25歳から34歳までの自分自身を振り返ってみます。
長くなりますが、もしご関心ある方がいれば読んでみてください。

25歳の頃の私

25歳の私は、東京の西の方で某商社の経理部で働いていました。

その会社には新卒で入社し、最初は営業部に総合職として配属されましたが、一年目で営業職の激しさをさばけず一人で抱え込んで、結果うつ病になりました。

一年間休職した後、復職後には経理部に配属されました。対人ストレスに耐えられなかったので、営業は無理。経理部だとコミュニケーションは社内の人のみとだったので大変助かりました。

ただ、もともと社交の場が好きで、海外にも行きたいと思っていたような人間なので、経理部での細かい作業を坦々とこなしていく仕事には向いていません。

ありとあらゆるミスをしでかし、さえない社員でした。自分でも楽しくありませんでした。

その頃、給料は手取りで17万円。中野にある女性専用シェアハウスで、4人一部屋に暮らしていました。家賃が3.2万円と安かったのです。うつ病が回復して、復職する時には、1人暮らしよりも常に周りに人がいる環境の方が安心しました。

大学生の頃は親の仕送りで神楽坂の家賃13万の2DKの部屋に弟と2人で暮らしていました。中野の小さな部屋で、親の偉大さが身にしみました。

そんなアラサー時代の幕開けでした。

毎朝、会社に行くのが苦痛だった

25歳の頃は、毎朝会社に行くのが苦痛でした。苦手でかつ嫌いなことをやっているから、見も入らない、ミスも多い。さらに給料も安い(と、当時は思っていました)

内面は外見に表れます。服装も今振り返ると「部屋着か!?」というような恰好の時もあり、朝は起きれないからスッピンで出社することが3日に1回くらいありました。伸びた髪を輪ゴムでくくっていて、からかってきた先輩に逆切れしたこともあります。

ずっと会社辞めたいと思っていました。
でも「辞めた後どうするの?」そこが分からないでいました。

だからといって現状に文句ばかり言っている自分に嫌気がさし、一発奮起して経理部の仕事を本気でがんばりました。苦手な簿記も勉強して3級の資格を取りました。(3級って入門レベルなので、経理のプロとしては足りないと思いますが、私なりにがんばりました)

その他、営業には戻れないまでも、社内で何かできるチャンスがあれば手を挙げてやりました。

それが年に一度会社の福利厚生の一環で行う社内パーティーです。大体、ボーリングをしてその後ビンゴ大会というような内容で、通常は新人や若手が企画&運営します。そこに、通常の業務では物足りなさを感じくすぶっていた私は毎年手を挙げて、携わらせてもらっていました。

最終的には入社6年目の中堅に差し掛かった頃まで、やらせてもらいました。「イロモノ担当の〇〇(旧姓)」と呼ばれてちょっと傷つきました。でも、私は何かを探していました。

他にも事業部を横断してのプロジェクトに参加させてもらったり、と社内でやれることは全部やってみました。(会社には今も感謝で一杯です)

またこの頃から自己啓発本を読みだしました。身に覚えがある方も多いと思いますが、あの頃はカツマ―といって、勝間和代さんの本を真剣に読み実行に移すビジネスパーソンが大量にいました。私も例にもれず、勝間さんの本を何冊も購入して、さらに充実した生活を送るにはどうすればいいのか?を考える日々。

どこかの本の中で「年収を上げたいなら、英語力と専門性が大事」と読みました。収入に満足していなかったので、英語の勉強を始めました。大学からの友人と2人で日曜日の朝にカフェで勉強会をしていました。

20歳を過ぎてから英語を学ぼうと決めた人たちへ』という本を購入して、この本で紹介されているやり方の通りにやりました。紹介されている参考書を全て購入し、コツコツやりました。

また、勝間さんが訳した、フィリップ・マグロ―著『史上最強の人生戦略マニュアル』を読み、これまた真に受けて、ここに書かれている通りに人生を設計してみました。

人生をこんな風に考えたことがなかったので、新しい視界が開けたように感じました。

漠然と「いつかは憧れの業界で活躍してみたいけど、どうせ夢だよね」と思い浮かべていましたが、一つ一つ行動を勧めることで「実現できるかもしれない」とうっすらとした確信のようなものが芽生え始めました。

自分がやりたいことは何だろう?

私の場合は「農業や食品にかかわること」でした。

週末になれば千葉に田んぼを手伝いに行ったり、東京のとあるオーガニック食堂や青山のファーマーズマーケットでボランティアスタッフとして参加させてもらい、会社以外の時間は全て興味があることをやっていました。会社の夏季休暇を利用して、ニューヨークのマンハッタンの各地で開かれているファーマーズマーケットを片っ端からめぐる旅などもしました。

また、この頃にメンターと呼べる方が3名できました。80代、60代、50代、とずっと年上の方で、大きな会社の役員をされている方、自分の会社とビジネスを経営されている方々です。折に触れて、食事に連れて行ってもらい、近況や悩みを聞いてもらっていました。そのたびに、叱咤激励と具体的なアドバイス、「こんな風に考えてみるもんだよ」といったことをいただいていました。

こんな立派な方が私なんかのために時間を割いて、さらにアドバイスまでくれて、さらには御馳走までしてくれて、、、何てことがこの世で起こっているんだろう!信じられないほどに恵まれていると思い、どういうお礼をしたらいいかも分からないほどでした。(既に豊かな方達なので、お礼として何か差し上げようにも何かちゃちくおもえてしまって、結局お礼の挨拶しかできませんでした)

そんな日々を数年過ごして、「私はこの会社でどんなにがんばってもやりたいことできないだろう」と思う瞬間がありました。社内には食品やワインを輸入する部署もありましたが、私が異動できる可能性などないと継続年数が経つほどに分かるようになりました。各部署はそれぞれが専門商社のような感じで、専門性や経験を積んでいない30歳手前の社員が異動しても(しかもうつ病になるほど駆け引きをストレスと感じる)難しいように思いました。

今は本当に行動を取らなきゃいけないし!と思いました。うつ病から回復して、本調子に戻るにつれて、思いつく限りのことをやってみての結論です。

「このままでは終われない。この仕事をするために、私は東京にいるわけじゃない!」と強く思いました。その時に私は29歳になっていました。

やりたかったことを、やってみる!

転職先は決まっていなかったけれど、貯金を100万円ためて食関連の資格を取って、退職しました。数か月は生きていけるお金はあるから、その期間内でなんとかなるだろうと思っていました。辞めてみると、目の前はノープラン。東京の住まいを引き払い、広島の実家に戻りました。しばらく両親のすねをかじっていたある日に、覚悟が決まりました。

「あ、今、ずっとやってみたかったことを、やってみよう!」

もう何年間も準備ばかりしていました。「いつかやろう」「いつか私もあの場所に行きたい」と思い続けて、最後の一歩が最後まで何年間も踏み出せませんでした。

やりたかったことを、やってみる!

そう決めて、私はアメリカに行きました。私がずっと憧れていたのは、海外に行く(できれば住む)、農業、食、オーガニックでした。3か月間、オーガニック農場で手伝い(WWOOF)をしてきました。

アメリカから帰国した時に残っていたのは、「英語が全然しゃべれなかった自分」と「今後も引き続きノープラン」の現実と6万円位の貯金でした。国内でもWWOOFをして数か月過ごしていましたが、いよいよお金が無くなって「働かなくちゃ!」となりました。そこで転職しました。

やりたい仕事がこの世の中にあった

日本の農産物や食品加工物を海外へ輸出するサポートという仕事に受かりました。自分では思いもしなかったような「やりたい仕事」が存在することに最初驚きました。前職、アメリカでの経験、資格、全てをかき集めて面接でアピールし、何とか受かりました。

仕事のためにまた東京に戻りました。30歳になって、また中野の3.2万円の4人部屋からの再スタートでした。東京に出る旅費と最初の家賃として10万円を親に借りました。(本当は「家賃と東京への片道で合わせて5万円貸して」とお願いしたのですが、母が「10万円持っときなさい」と言って渡してくれました)

最初の月は現金がなかったので、食料品や仕事用の洋服は全てクレジットカードで購入しました。見かねたお友達が本当に心配して、仕事用の服を何着も貸してくれました。笑えるほどのダメさ加減ですが、周りの人に助けられて1か月目を乗り切りました。

新しい仕事は月収30万円からのスタートでした。数か月のうちに、親にお金を返し、友人にお洋服を返し、部屋も引っ越しました。広尾で外国人とルームシェア(家賃10万円)を始め、そりが合わなかったので数か月後には六本木で一人暮らしを始めました。家賃11万円が自分で払えるようになっていました。職場に近かったので決めました。

新しい職場は、「英語はできて当たり前」な職場でした。プラス別の言語もできれば尚良し、という感じです。(私が配属された部署は「しゃべれなくても大丈夫。喋れる人が言っていることと、書かれていることが読めればギリギリセーフ」でなんとか滑り込みました)優秀な人ばかりで、ついていくのに必死でした。週末は表参道にある英語学校に通い始めました。月謝が4万円弱しましたが払えました。仕事するために時間もお金も全て捧げようと決めていました。そのくらいその仕事に夢中でした。

職場の人たちもみんな素晴らしい人格の人ばかりで、商社の頃のように飲み会で「先輩に酔って絡まれたうえに、ネタにされる」ようなことも皆無でした。商社にいた頃は六本木~赤坂と言えば接待時の街並みしか知りませんでしたが、転職してからはオフィス街でもあるということに気が付きました。同じ東京とて、世界は色々あるんだな、と思いました。

(商社でのその先輩とは営業でタッグを組んでいた間柄でいつもお世話になっていた、私は今でも大好きな方です。決してハラスメントではないのですが、荒い愛され方をしていました。日ごろの信頼関係があってのことです。私にとっては良い社会勉強でした。他の先輩達も暖かい方が多い会社で、家族の一員のさらには末っ子か、と思うほどに良くしていただいていました。)

夢中で働いていたら年収500万円超えてた

正直私には背伸びの職場でした。大人数のプロジェクトを回す視野の広さと頭の回転の速さ、ダイナミックさが求められ、それをこなしていく同僚にいつもたまげていました。業界の大物がい合わせる場所での緊張感に耐えうるメンタル、と、グズな私のミスを笑顔でカバーしてくれる度量。今思い出してもしびれるほどカッコいい優秀な人たち、そんな方たちと一緒に働いた経験は私の宝になりました。

夢中で働いていたら、2年目で年収が500万円を超えていました。私は2年間働いて夢のような仕事を辞めたのですが、働いていた時には、自分自身は年収300万円のつもりのまま、日々明細を見る暇もないほど忙しく生きていたので、退職した時に落ち着いて計算してびっくりしました。え!こんなに稼いでいたんだ!と。辞めてから気が付きました。確かに、毎日スタバに通っても、どんなランチ食べても、成城石井で何を買っても、思い付きでスーツ買っても払えていました。

「収入を上げたければ、英語と専門性を身につけよ」

本に書いてあったことは本当だったんだな、と思いました。気が付けば、海外バイヤーと「日本茶の種類や収穫時期について」や、「お煎餅は美味しくてマーケットはありそうだが、どうも海苔が歯にくっついていけないね」と言った話を英語でしていました。

500万円では驚かない方も多くいると思いますが、いやいや何を仰る。広島に帰ってまた親のすねをかじっていた時に気が付いたんですが、それだけ年収があれば家族を養えます。私、忙しく生きて東京ではいつもヘトヘトだったけれど、田舎から母親に定期的に来てもらって家政婦してもらったとしても謝礼と交通費を十分払えたな、そうすれば良かったな、と終わってから思いました。

今は、リモートワーク in ブラジル

仕事を辞めて、結婚してブラジルに来ました。ブラジルで落ち着いた頃に、リモートワークを始めました。収入は1/10程、責任や拘束時間も同じ程度になりました。今は今までで一番、自分らしく働いています。

東京での仕事では、所属先の名前を背負った、プロジェクト内の立ち位置を意識して働いていました。常にその役を演じて、言葉を発していました。だから私の本音ではないこともやりました。というか、私の本音なのか演じているのかが分からなくなりました。本心を口に出す機会が限りなく無くなりました。コンビニで買い物してても「あ、すみません」とやたら謝ったり、周りに迷惑をかけていないか相手を怒らせやしないか?を最優先に気にするようになりました。

やっている仕事自体はとても壮大でしたが、私自身はどこか付いていけずにいました。だからいつもスタバでは癒されていましたし、その時間が必要でした。

今の仕事は、私が個人としていられることがかけがえない貴重なことだと感じています。個人の裁量に任せられていることが多く、それは私にとっては新しい環境です。自分で考えて実行する、先輩にも思ったことはハッキリ指摘する、風通しの良さが気持ちよいです。今もなお勤務しているので、詳しくは触れることは避けますが、同僚やワークスタイルから日々新しい刺激を受けながら働いています。

まとめ

やりたいことを、やってみる!

29歳の頃に、何年間もためた思いを実行に移すときが一番怖かったです。(ブラジルに引っ越すことより怖かった)
それまでこれでもかというほどに準備をしていました。

「あぁ、いつかと思ってたやつ、今なんだー。ひぇー!!!」と泣きたいような気持でした。

でも、それをメンターにご報告したら、3人とも私の決断を喜んでくれました。

あなたならいつかそうすると思っていた。

そう言ってくれたことが、アメリカでも六本木でも、初めてのことに挑戦する時にはいつも私を支えてくれました。

周りの友達や家族も、いつでも見守っていてくれました。私が本当にお金がない時、見かねてお小遣いをくれた友達もいます。(その子は既に結婚していたのですが、旦那さんと話し合って「私が今こんな時だから、あげたいね」って同意のうえ包んでくれたそうです)

振り返れば、いつも人に支えられて、自由に思うままに生きてこれました。

新卒で入った会社の先輩が、退職するときに言ってくれた言葉。

「僕も自分に言い聞かせていることなんだけれど、周りの人のおかげという感謝の気持ちを忘れちゃいけないよ。」

チャレンジをしてきた人は、それを応援してくれた人がいたことを忘れてはいけません。
私は、前へ前へと突き進むクセがあります。

くぎを刺してくれた先輩の言葉を思い出す時、いつも胸がちょっと痛いです。

撮影:セラジュンコ(https://ameblo.jp/unu-jun/)

関連記事:年収500万時代の悩み

やりたいことを仕事にできても収入がアップしても、悩みはありました。退職後に振り返りながら、新しい生活に活かすようにしています。

「自尊心うすいのに、よく会社員やってるね。メンタル、ギリギリでしょ?」1年前の自分へ。

「相手に嫌な想いをさせてしまった、私のせいだ。」という悩みから解放されて、ステップアップしていく。

「嫌われる自分」になると、うまく仕事ができる気がする。

「落ち着け、現実を見ろ」と私を諭してきた、その彼は夢のような現実に生きていた。

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