【ブラジルの生活】路上でお金をせがまれることへの、私の受け止め方。

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ブラジルに来ておどろいたことの一つに、街のなかで「お金ください」と言われることがたまにある、ということ。
それも子どもや20歳くらいの若い人に。
 
 
 
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初めて小さな女の子に「小銭をくれませんか?」と言われた時、それはある晴れた土曜の午後のことで、近所のレストランのテラス席で、昼ビールで乾杯しながら、肉を注文し過ぎて食べきれないな、なんて思っていた時だった。サングラスなんかして、夫と2人で。
 
 
 
その時、私の頭と感情が一瞬で動かなくなって、どうしたらいいか分からなくなった。その時は、彼女の母親らしき人が少し離れた場所から様子を眺めていたのが、夫には見えていたから、小銭はあげなかった。親がさせていることだと判断したから。そのお金は、親がろくでもないことに使うことになるだろうから。
 
 
 
30を越えたいい大人になっても、分からないことは分からない。
ものすごくショックを受けたし、贅沢をしている自分をどうしたらいいか分からなかった。
でも昼からビール飲むことが悪いわけじゃない。
 
 
 
それ以来、機会があればブラジル人の知人友人に、こんな時はどうしているか?を聞いてみてる。答えは一つじゃない。いろんな考え方や対応がある。
 
 
 
友人のJちゃんが言うには、
「その時々で判断する。インスピレーションや感覚で、あげる、あげないを判断する。
ただ、ほとんどの場合、ほんとに数十円、数百円のコインでも本当に助かる人々はいる。」
 
「でもね、お金を渡す時でも、財布はカバンの中に入れたままにして、見せないようにするのよ。」
 
 
 
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ある時はこんな光景を見た。
大型のスーパーマーケットの一角に併設されたカフェテリアで、「お金をくれませんか。もしくは、食事をご馳走してくれませんか。」と聞いてまわる二十歳そこそこの青年がいた。清潔感のある服装をしていたし、やせこけている訳でもない。首から提げた十字架。
 
 
 
私はなんだか不思議な気がした。イヤな感じというよりは、目の前で何が起こっているのか分からな過ぎて、許容量を越えてた。だから、「お金持ってないです」と言った。
 
 
 
他のテーブルも廻っている彼を眺めていると、とある初老の男性が立ち上がって、彼と一緒に注文カウンターに向かった。その男性は、注文してお金を支払ったら、青年と「じゃあね。」という挨拶をして、自分のテーブルに戻って行った。それで終わり。あとはお互いに何も無かったかのように、それぞれの場所に戻った。
 
 
 
青年はレジ側で食事が用意されるのを待っていたけれど、その時一人の女の子がそばに寄っていった。その後、2人一緒に食事をしていた。私にとっては初めてみる光景だった。
 
 
 
 
***
『スラムドック$ミリオネア』や、『Lion』という映画で見た、貧困にある子ども達の様子を、ブラジルに来てからは今までと違う感覚で見ている。
 
 
 
最初は、日本で育ってきたことがどれだけ平和だったのかを思い知らされた。そして、格差社会ってこんなのなんだと思った。日本では今でもほぼみんな中流階級と呼ばれる「食べる分には困らない」暮らしができている。少なくとも私はそういう世界で生きて来た。

 
 
と思っていたけれど、日本からは見えないだけ、だった。日本で簡単に手に入れられるコスパがよくてかっこいいデザインのモノを生産している、近隣の国の人達の暮らしは、日本の私達の水準とは同じじゃない。その人達の暮らしをメディアを通して知るけれど、実際に見た事はなかった。
 
ブラジルだとそれが同じ一つの国の中で起こっていて、同じ街の中ですれ違う。英語の記事などでは、階級を表す言葉(Upper middle classとか)にも触れることが多々ある。日本だと国を出ないと見えないだけで、構造はとても似ている。
 
 
 
最初はキレイな洋服を新しく買う事がとてもイヤになった。
何していいのか分からなくなる。
でも暮らしていると、そんな考えは現実的ではないと思う。
私はここで暮らしている。
だからこそ、まずは自分の暮らしを守らなきゃいけない。
自分にできることがあるのと同時に、できないことがあると知る。

 
 
 
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昨日、夕方暗くなり始めた街中で、パン屋の店先で軽食をとっていると、10歳くらいの男の子が話しかけて来た。だけど、何て言っているのか、本当に分からなかった。(お金欲しい、なら分かるけれど、多分違うことを言っていた)
 
 
 
それで、私は、「ポルトガル語が分からないの。ごめんね。」と言ったんだけど、そしたら男の子は親指を立てて「OK」と言って去って行った。
 
少し離れたその子を見てたら、どうやら車が店先に駐車する時に誘導して、それで小銭をもらおうとしているみたいだった。みんなが帰宅する時間だから、車量も多いしもう暗いから危ない感じはあるけれど、車道と駐車場の中間でくるくると動き回っては、車を誘導していた。
 
 
 
パン屋の前には、ブラジル版のガチャガチャがあって、1回1レアルのポケモンのおもちゃが大人気。
私がいた時間帯は丁度仕事から父親が帰宅する時間帯だったので、
小さな男の子達が次々に来ては、一緒にいる父親にせがんで買ってもらっていた。

 
 
私に話しかけて来た男の子と、ポケモンを買ってもらってはしゃいでいる子達は、
同じ場所にいるのに、全然違う世界にいるように見えた。
 
 
私がその場から去る時にウーバーをよんだら、あの男の子のそばに車が止まった。彼と目が合って私は何か言いたかったけど何も言えなくて、何となくお互いに見つめる形になった。そしたら、彼が私に手を振った。私も振りかえした。
 
 
 
私は結局何もしていないけれど、
彼の目を見れるようになった。
彼を怖れなかった。
過剰な同情もなかった。
 
 
それでいて、10歳そこらの子どもには、夜暗くなったらお家に帰って安心して、普通に勉強したり遊んだりダラダラしてほしいと願う。

そのために何かができるならば、私はこの近所に住むものとして、“近所のおばちゃん”として、当たり前になにかしたいと今はそう思っている。
 
 
 
そして、こんなこと(目を見る、願う)だけが今の私のできることの全てです。
 

 
世の中を知るって、こういう感じなんだ、と思った。今まで、英語がんばって、仕事がんばって「やっと国境をまたいで仕事ができるようになった!」と自分ではうれしく思っていたけれど、仕事だけでは見えてこないもの沢山あるんだ。
 
 

なかなかに鈍く、みぞおちあたりに来るものです。

 
 
Akiko Y.P
 
 
 

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